雑感)ソーシャルワーカーとしてクライエントの決断の場に立ち会うということ
言葉だったり、言葉に出てこない機微であったり…
そのさまはひとそれぞれだけれど、比喩的表現を用いれば、決断をしなければならない自分をそこに繋ぎ止める行為=岩場にハーケンを打つ行為、と言える気がする。
人は、選択の連続である人生に整合性を持たせてあげるために、「決断を迫られている自分を今ここ(対峙している逃れられない現実)に繋ぎ止めておく」という行為をすることがある。
それは、繋ぎ止めるという行為(ハーケンを打つ行為)のあとに残るハーケンが、自分の来た道を見下ろした際に、自身の軌跡を示してくれるからなのだと思う。「今」を繋ぎ止めておくことで、未来の自分が、過去に成り下がった「今」を意味付けするために。
その際に、ソーシャルワーカーに出来ることは、おそらく、ただ、「舞台化」された身体を意識し、繋ぎ止めるための行為を成すための舞台の一部になること。
その過程において「舞台化された身体」を提供することは、「繋ぎ止める」という行為の後に残るハーケンの深度と強度を強める可能性があるのかもしれない…。
誰かと一緒に打ったハーケンは、より一層深く、岩に突き刺さり、容易には崩れない。
ソーシャルワーカーと患者さん家族は運命共同体ではないから、アンザイレン(二人以上が相互安全確保のためにロープを結び合う行為。危険を伴う箇所-岩壁、氷面、雪面等-の登降では、安全を確保するために二人以上をロープで結ぶ。)はできないけれど、ハーケンを一緒に打つことはできる。
そんなことを、決断の場に立ち会わせてもらうたびに思うのです。
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