ソーシャルワークの古典から先人たちの実践知を学ぶ意義について考える

公開日: 2012/10/29 MSW 勝手にブックレビュー 読書記録

ここ数年、自分の職業領域の古典は読めども、最近の学術論文を読んでいないことに気がつきました。

個人的には古典、名著として、エコロジカルソーシャルワーク、ケースワークの原則に加え、リッチモンド氏の著作ほどお世話になった本はありません。

これらは、読み込めば読み込むほど、それがいかほどに実践の言語化として洗練され、かつ、新鮮でみずみずしい実践の言葉に溢れているかに気づくのです。


わたしが語る実践に関する言葉は、所詮は「先人たちの実践の言語化という遺産」の二番煎じ(自分の言葉で、再定義したもの)に過ぎません。


ですから、本来であれば、ソーシャルワーカー各自が自身の実践から得た言語について、先人たちの理論等の「どこ」に根拠づけられるかという「紐づけ・関連づけ」ができないということは、ほぼ有り得ないということになります。
(とっぴな新理論を生み出せれば別かもしれませんが、新理論と呼ばれるものそれ自体も、既存のものの組み合わせや、反対の概念をもってきたり等のものであると想像し得ます)


自分の実践から得た言語が、先人たちの理論等の「どこ」に根拠づけられるかという「紐づけ・関連づけ」ができない言語が、もし、あるとしたら、それは「紐づけ」できる能力不足、という援助者側の能力の問題なのだ、と。


冒頭の、タイトルへの答えとして、
先人たちの実践知を学ぶのは、いつでも参照可能な「自分」以外の「実践を図る物差し」を持つためだと考えます。


「紐付けられない」実践から得た言語は、ただ単に「純度の低い言語」なだけであって、純度の高い言語化が成されているのであれば、先人たちの実践言語に「紐づけ・関連づけ」できるのだと思うのです。


その上で、日々の援助記録を書くということが、
何より、先人たちの実践知によって得た「自分以外の実践を語る物差し」に、自身の実践から得た言葉を「紐付け・関連づけ」するための力を鍛えることになる(言語化の純度を高める)ことになると思うのです。


記録は個々の援助者の実践の振り返りの材料でもあり、前回面接を振り返り(準備)した上で、継続面接に入る、というクライエントへのプロとしての当然の「作法」でもあるのです。


作法も流儀もプロとしての態度も訓練も、そういったものは、口でどうこう語るものじゃなくって、「日々の実践とその準備をどう丁寧に行うか」という積み重ねの中に宿るものなのだとわたしは思っています。



と、話は逸れますが、今後のSWを語る会では、学会発表される方がいるとのことで、年明け1月の語る会の分科会で、その発表を改めて共有していただく予定です。
(ちなみにわたしも12月に発表予定のものを1月の会で共有させていただく予定)


言葉にされた実践が、新たな学びを種を生む。
個々の学びと、変化をみなで共有することで、学びは増えていく。


その循環を繰り返し、そこで生まれる知を積み重ねていくことができる。
それらを現場での実践のエネルギー源のひとつとしてもらえれば。
SWを語る会を、そんな場にしていきたいなと思っています。


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