根拠無きアドボカシーは誰のためのものか?
最近、以下のような発言を目にしました。「本当に苦しみ深い人は、専門職に向き合うエネルギーも沸かない。ただただ、泣きはらし、底つき体験の中でもがき、苦しむだけ。だから、専門職の方から近づく努力をしてもらいたいと思います。」
こういうことを真顔で言えてしまう人とは、一生相容れないのだとつくづく思います。
このような、専門職=聖職、のような勘違いをさせてしまうことを、したり顔で学生たちとかに語る理想主義者は、自分の精神世界でだけでそう考えるだけなら無害なのですが、それでは満足できないから困りものなのです。
そもそも、「苦しみ深い」と表する(わたしは絶対このような形容はしないけれど)ような人が、専門職に「向き合う」義理なんぞないのです。断言して構わない。
そのような義理は無い。
職業的立ち位置を見誤っているから、こんな言葉が出てくるのであって、「もがき、苦しむ」なんていうのは、当事者だけに許された言葉であって、「オマエ」なんぞに代弁されるものではない、と。
生きていく以上、全ての人間は「何かしらの当事者」であるわけで、専門職は、自分以外の「当事者」の言葉を「代弁」するのであれば、そこにはそれ相応の根拠がなければならない。根拠の無い代弁は、援助者の自己満足遊戯でしかない。ほんと、それ以上でもそれ以下でもないのです。無意味。
「根拠無きアドボカシー有害論」は、一部の援助者のアイデンティティ「自壊」の危険性も有しているのですが、あえて述べてみました。
でも、嫌悪感を禁じ得ない価値に出会ったとき、自身の価値が強烈に炙り出されるから、その点「のみ」については、某発言者に個人的に感謝しておこうと思います。
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