ソーシャルワークの構造的病巣についての一考察
以前の勤務先では、1年に5人くらいの学生さんを実習で受け入れていました。自分が一番下っ端で、学生さんから色々な質問を受ける立場にいて気がついたことがあります。
それは「問われること」により、「自分が伝えられることの限界」を知り、かつ「その限界を打ち破っていくことができる」ということでした。
「それはなぜですか?」と問われるとき、自分の手持ちの資源を総動員して、その問いに答えようとします。そのプロセスによって、自分が伝えられることは拡張していくのだと思うのです。
『「問うてくれる存在」の不在は、機会の喪失に等しい』と実習生からの質問に答えながら気がついたことを思い出します。
はて、自分たち相談援助職は対象となる人に対して「問う」ばかりで、「問われる」ことはほぼありません。対象となる人から「なぜあなたはわたしにその質問をするのですか?」という「問い」を差し戻されることをほとんど想定していません。「問い」は何かしらの根拠とセットでなされるものであるはずなのに。
「問い」は何かしらの根拠とセットでなされるものであるはずなのに、対象となる人から「なぜあなたはわたしにその質問をするのですか?」という「問い」を差し戻されることをほとんど想定していない、というのは、ソーシャルワークの構造的病巣のようなものだと私は考えています。
わたしは、対人援助職がこの「構造的病巣」を有しているということを勘案した上で、では、どうするべきなのか?という問いに歩を進めたいと考えます。
ものすごくシンプルに言うと「問われる環境を人為的につくってしまおう」という試み(同業者間で)をしたい、というところに帰着します。
後輩は「先輩!これはどういうことですか!?」という問いを発し、
先輩は「これは、こういうことではないか」という「手持ちの言葉で表出可能な言語化」を行うのです。
「問う(問題意識をもつ)」訓練。
「問われる」ことにより、自身の限界を拡張する機会。
上記が生まれる「場」を意図的につくりだすのです。
教育的機能について貧弱だと言わざるを得ないソーシャルワークの領域には、特にこの「場」が必要だと思うのです。なのに、職能団体は「認定資格」という「先細り」方向に走る。まず幹がしっかりしてこその枝葉でしょうに。
私たちの世代は「業界が有する構造的病巣」に自覚的だと感じています。
ですので、同様の問題意識をもった方たちとそういった「場」作りをすすめていきたいと考えています。
6年目として、この業界にしっかり自分の資源を還元していかなければいけない。
それが、今まで自分を育ててくれて、なお今も教えを請うている患者さん家族へのひとつの敬意の示し方でもあるのです。
「いつか」ではなく「今」できることを考えよう。
そう、わたしは思っています。
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