夢物語か否か。

公開日: 2010/06/27 キャリアデザイン 思索

「もし、小学生のなりたい仕事TOP10にソーシャルワーカーが入る時代がきたとしたら、今よりももっと優秀な人材がソーシャルワーカーの世界に溢れているだろうね」

そんな夢物語に近い話を大学の後輩としました。
TOP10とまではいかないにしても、TOP50くらいには入る時代が来て欲しいと思う。けれども、その道のりはひどく険しい。

福祉職の待遇は悪い。職業に貴賎はないと言いますが、それにしても社会的にノーブルな仕事としては認知されていないし、給与も概して低い。今のままでは、優秀な人材を招き入れる間口の拡大は望めない。

そのためには福祉職の社会的認知度を高め、かつ待遇をよくすることがまず必要。福祉職を志す人の数、つまりは母数が増えれば、確率的に優秀な人材が増えるだろうというロジック。方々で議論をされてきているテーマについて、自分の言葉でなぞり直してみようと思います。


間口を広げる努力と一言で言ってもいろいろな方法があるかと思います。思い当たるあたりで


①臨床ベース
②構造ベース


というように、どちらからアプローチしていくか、という違いがあるかと思います。

①臨床ベースで言えば

ソーシャルワーカーたちが最高のパフォーマンスを常に発揮できる職業的身体を鍛え上げ、対象となる人に真摯に全力で関わる。それが結果として、ソーシャルワーカーの社会的認知度を高めることにも寄与することにもなると考えています。

医療機関においては、所属機関からは社会的入院をできるだけ少なくすることでソーシャルワーカーは評価をされることが多々ですが、患者さん家族に「とりあえず転院先を見つけてくれた人」くらいの認識しか残らないのだとしたら、社会的認知度を高めることにはまず寄与できないでしょう。所属する機関と患者さん家族の利するところには常にミスマッチが存在し、そのミスマッチを認識つつ、どのような仕事をするのかということも常々考えていかなければならないのだと思います。

「ご自身だけでの力で生活を継続していくために対処しなければならないことに対して、患者さん家族の揺れに沿いながら、その人たちの意思決定のプロセスに関わる」という共有体験を経ることがなければ、その人たちの人生の中に「ソーシャルワーカーという人がいた」というページは残らないのだと思います。ページを残すことが目的ではもちろんないですが、なんちゃってな仕事をいくら積み重ねても、「ソーシャルワーカーは専門職なんだ」という社会的な評価は得られないのだと思います。そのことにどれだけのソーシャルワーカーが危機感を抱いているのかが非常に疑問です。

上記は「必死に頑張る」とか「全力で」とかいう精神論だけでは決して達成できないことです。精神論というハートに加え、根拠に裏づけされたアプローチができる職業的な身体を成熟させていく術をソーシャルワーカーたちが持ちえなければならないと思うのです。そして、その術(スキル)を伝承可能なものへと昇華させるために「言語化」することができてはじめて、プロフェッショナルの最初のステージを踏めるのだと思っています。

そういった意味で自分自身は自身が定義したプロフェッショナルに側して言えば、未だプロフェッショナルではない、ということになります。そのことが自分に与える危機感は常に自分の実践をチェックせよ!というセンサーを働かせる大きな原動力になっています。「怖いからやらなきゃ!」という臆病者の自分にぴったりの動機づけなのです。



②構造ベースについては、今の自分が語れる言葉はあまりありません。
待遇や給与については、構造的な変化を起こすことが必要です。冒頭に記したような問題意識を持った人間が構造ベースで関われるポストにつき、変化を起こしていってもらうという方法もあります。


それから
塾の講師をしている大学時代の友人から、いつぞやこんな話を聞きました。
社会科の授業の際、友人が僕の仕事話やらブログやらから「ソーシャルワーカー」という仕事についての話をしてくれたことがあったらしく、その後中学生の女の子が、講師の彼に「私、将来ソーシャルワーカーになりたい」と話したというエピソードがあったとのこと。ソーシャルワーカーが魅力有る仕事だと思ってもらえるためのアクションを起こす。ということもまたひとつの間口を広げる努力のひとつだと思うのです。



【地域の一資源として位置付けているか?】
先日、とある場で同業者批判を繰り返す人に出会いました。酒がまずくなったのは言うまでもないのですが、他院のソーシャルワーカーのことを愚痴っている暇があったら、自分自身が属する機関の資源としてきちんと位置づくことができているかを考えるべきだと思うのです。腹が立ち愚痴を言いたくなるのは「自身の価値と相容れない何かがそこにあるから」であって、だとしたらそれは自身の内面の変化に気付くチャンスでもあるわけで、そういう建設的な方向に思考をもっていくことができるスマートさを持っていたいと常々思います。
相手がなんちゃってソーシャルワーカーであったとしても、結果としてそれが患者さん家族に不利益を被らないようにアプローチをし、対処できればいいわけだと思うのです。建設的ではない批判はほとんど無意味です。愚痴はおウチか内輪の酒の席のみにしたほうが懸命だと思うのです。今までくだらないことで愚痴って品位を落とす同業者を見るたびにそう思ってきました。本当に反面教師です。


院内の他職種、地域の専門職等と信頼ベースで仕事ができるソーシャルワーカーとして属する機関に位置づくことができれば、それは言い換えればソーシャルワーカーが地域の一資源としてそこに存在することができているということに等しいのだと思います。このように、自分を資源化して捉える視座は持ち合わせておきたいものです。ソーシャルワーカーのスタンドプレーでは何も解決できない。いいアプローチもできない。だとしたらどうすべきか?答えは明白だと思うのです。


医療はある種の聖域的なものを持っていて、それが医療機関に属するソーシャルワーカーに勘違いを起こさせる原因にもなっているように思います。医者、看護師etc…。医療機関のスタッフは専門職集団の集まり。ソーシャルワーカーもその輪の中にいるだけで「専門職」だと錯覚する。たかが転院調整屋であったとしても。がんとか難病とか、そういった他の福祉職からしたら「医療という聖域的な領域」を抱きかかえることで、「自分たちはソーシャルワーカーという専門職だ」という根源的な部分を熟成させることなく、領域や分野をスケープゴートにして「なんちゃって専門職化」していく。そのような現実があるのは悲しいですが確かだと思うのです。

自分自身、専門領域がどうのこうのという話はあまり興味がありません。
欲しいのは明日から児童相談所に行っても、生活保護の担当になっても、有る一定の保たれた質のパフォーマンスを発揮できる実践力のみです。


臨床。
研究。
教育。


ですので、上記について優先順位をつけながら少しずつ深めていきたいと思っています。


臨床については、ここ3年間の積み重ねはとりあえずは的外れではなかったということを周りの評価が教えてくれているので、今までどおり、常に短期の課題設定をして評価をする・してもらうということを積み重ねていきたいと考えています。僕自身の成長過程に合わせたペース、言語で指導を行ってくれる上司。目指したいロールモデルが近くにいるということは非常に恵まれていることだなと思います。


研究については、これからその方法論を学んでいきたいなと思っています。
質的研究の入門研修みたいなのものに参加しようかと思っています。小さな一歩を、と。


教育についても、まだまだまだ何も言える立場ではないですが、実践を言語化して落とし込むという作業を課していくことで、いつか教育に関わる機会に出会えた際に提供できるストックは徐々に増えてきている気はしています。毎年5,6人学生が実習で来ているので、色々とトライする機会も上司からもらっているので、実践を言語化して伝える、ということを考え続けていきたいと思っています。


自分たちの仕事に誇りを持っているからこそ、常に内省し、批判的にかつ建設的に思考を積み上げていくべきなんだといつも思うのです。


最後に…
漫画「医龍」の中で、麻酔科医の荒瀬に主人公である心臓外科医の朝田が言い放った一言。


腕ってヤツは、上がってると感じてなきゃダメなんだよ。
維持してると思ってんなら、落ち始めてるってことだ。


こういう気概を持って仕事をしていきたい!!
4年目も3ヶ月が終わろうとしています。
ギアチェンジ後のスピード感にも慣れてきたので、アクセル全開でいこうと思います。
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