4年目

公開日: 2010/05/11 MSW

ソーシャルワーカーとして働き初めてから4月で4年目になった。

物事を構造的に理解するために色々なことに興味を持ち、本を読んだり、勉強したりすることを継続していきたいと最近強く思う。
断片的な情報からその人の生活を想像する「生活想像力」は努力しなければ身につかない。経験と色々な知識を織り交ぜながら、じっくりと確実に成長していきたい。そんな中堅どころの入口である4年目のスタート(もう1カ月経ったけど。笑)


経験年数に比例して「なんとなくわかる」ということが増えてきたと感じると同時に、既存の借り物の言葉を用いてわかったかのように語れることが多くなってきたように思う。そして、それが意味するところの怖さに気づく。なんとなく、は楽だ。考えなくてもいいし、流れていくから、身を任せて、なんとなくやればいい。なんとなくを意識化して、その怖さとか副作用にビビりながら、なんとなくを実行できるならまだいいのだけれども。それもまた難しい。


20歳の時に自分にとっての「成長」を「自分の大切にしている価値観や物事に対して、昨日とは違う新しい言葉で表現できること」と定義した。それに則り、自分の仕事について言語化することを課しているのだけど、慢性的に流れていく日々の方が多くて、そんな日は単なる疲労感しか残らない。そんな日はたぶん自分がどこかで手を抜いているんだろうな、と思う。


「患者さん家族のニーズや想いを引き出す」
先日、とある場で同業者が言っていた一言。
これを真顔で言えちゃう同業者とは一生相容れないなと最近よく思う。
この言葉はソーシャルワーカーのおごり以外の何物でもないと思っている。


ソーシャルワーカーは精神科医でも心理士でもない。
ソーシャルワーカーがまずすべきことは、「引き出す」のではなくて、患者さん家族の表出したものを一緒に、まずは何に手を着けたらいいのかということを「整理する」こと。と自分は思っている。


人が思いや感情を表出するというプロセスには段階的な作業が必要であって、そのプロセスを意図的に積み上げてきた上での表出であるのか、それとも何かしらの事象がスイッチとなり、プロセスをぶっ飛ばして飛び出してきてしまった「表出」なのか。

その点に留意せずに、ソーシャルワーカーが「患者さん家族が感情を吐露して色々な思いやニーズを言ってくれた。引き出せたかな!」と思うようであれば、うなづきんちゃんの法則(ソーシャルワーカーもうなづきんちゃんも、うんうん、と相槌を打ちながら聞いてくれてるかのような感じを醸し出す対象という意味では一緒だという極論。笑)を思いだし、自分を戒めるべきだと思う。


あるラインで生活をしてきた人たちが、病気とか障害とか様々な要因により、そのラインを維持できなくなったとき、どうすれば生活を継続していけるラインまでリカバリーしていけるのかということを、患者さん家族の対処能力とか有する社会資源とか、そういうものを教えてもらいながら、リカバリーしていく生活を一緒にイメージできるように様々な工夫をし、リカバリーするのに足りない部分を何で補うのか、それとも生活のラインを少し下げることを許容するのか、等。

今まで通りに継続できなくなった生活をどのようにリカバリーして、新たに継続していく生活として再構築していくのかということをきちんとアセスメントしながら、仕事をしていくということをカラダに叩き込みたい。


生活は続いていく。危機に瀕するたびに、なんとかそれに対処して、また日々を取り戻して、また危機に瀕して、対処して…。そんな繰り返しの歴史が人や家族にはあるのだ、という当たり前のことを忘れずにいたい。ソーシャルワーカーが出会うのは歴史ある名前ある生活者たち。僕らの前に見せる顔が患者であり、その家族であるだけなんだ、ということ。
なんとなく流されそうになったら、思い出すことにしよう。


自分の言葉で勝ち取ろうともしないくせに、そんなの当たり前じゃん!と一蹴することは止めにしたい。ゆっくりでもいい。自分の世界や価値観を、成熟させながら年を重ねていきたい。それができる人は綺麗で素敵だ。だから、そんな歳の取り方をしたい。
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