資本主義社会に埋没するソーシャルワーク
公開日: 2015/11/16 思索 勝手にブックレビュー 読書記録
自分たちが生きているこの社会と、自分が何を飯の種にしているのか、言い換えれば「どのような人の欲求や痛み」によって貨幣的な価値による報酬を得ているのか、ということについての、俯瞰的なモノの見方がまだまだだと思わされた言葉だった。そして、フランスのテロのニュースをみて、積ん読になっていた本書「リキッド・モダニティ-液状化する社会」を手に取った。
個体(ソリッド)と液体(リキッド)というメタファを軸に本書はすすむ。
個体(ソリッド)と液体(リキッド)というメタファを軸に本書はすすむ。
ソリッド(固体的)な近代とは、個人が家族、地域、会社などの中間的共同体に覆われていた時代。それぞれの原子(個人)が、ひと固まりにに結びついた固体のような社会であり、リキッド(液状)な社会とは、個人(原子)がバラバラに動き回る液体のような社会。
これは、現代の戦争(国家対思想的集団)や多国籍企業にも言えることだし、資本主義と社会福祉の関係性においても言えること。
大河内一男が、1960年(たしか)当時の著作で、社会政策を「資本主義における労働力を総体としての資本が安定的に確保するためのもの」と言ったのだけれど、もはや、液体的(リキッド)な現代のグローバル化した資本主義社会においては、個体的(ソリッド)である”地域”という枠組みを排することができない社会保障(そこに含まれる社会福祉もしかり)、は、資本にとっての、「安定的に労働力を確保する」という目的において、さほど重要なものではなくなってきている。だからこそ、今後、国家が果たすべき役割はどう変化するのか?という先の理解はこれから深めなければならないとも思う。
歴史観もそうだけれど、自分がどのようなスコープで社会を捉えているのか(と同時にスコープの視野の限界の自覚)ということは、適宜確認してアップデートしていかなければいけないし、自分が今生きている社会をどう捉え、どのように振る舞うべきなのかという問いに対して思考することは、自分が為すべきことを教えてくれさえもする気がする。
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