ソーシャルワーカーか、”社会的排除の執行人”か?
公開日: 2015/06/07 ソーシャルアクション 思索
とあるところで、社会からはじかれる人たちを包摂するという志からはじまったことが、汎化され、規模を広げ、そして、ときが経ち、法定化され、制度化されると、明確なウチとソトの境目が生まれ、”ウチ”に入れない人が、はじかれる、ということが社会に生じる。そして、また新たな「社会からはじかれる人たちを包摂するという志」が誰かの胸に宿る。螺旋階段のように。
日本の多くのソーシャルワーカーは福祉政策の末端(法定化され制度化された)にある援助活動主体として振舞う。それゆえ、マネジメント主義化の行く末は、ソーシャルワーカーという名の、ウチかソトかを決める”社会的排除の執行人”ともなり得る可能性がある、ということを想像できるくらいの想像力は持っておきたい。
ウチかソトかの判断軸のみで、「あなたの来る場所はここではありません」と排除するのではなく、その人と一緒に留まり、考え、”クライアント個人、家族、組織、地域、そして社会”を串刺しにした支援のプロセス(ミクロからマクロへ)を創り出すことができたとき、その蓄積が、その積み重ねが、福祉から社会を変えることにつながり、それは、言い換えれば、目の前のクライアントから教えてもらったことを、最大限、社会に対して還元していくことなのだ、とも思う。「社会福祉の循環構造モデル」は、この過程がないと成立しないのだろう、とも。
”クライアント個人、家族、組織、地域、そして社会”
自分は、現場において、どこまでに串をさせていたか、と回想する夜。
自分は、現場において、どこまでに串をさせていたか、と回想する夜。
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