私が医療ソーシャルワーカーの仕事につくきっかけとなった実習指導者との出会いと、現任者の教育的機能の向上についての一案

公開日: 2014/03/21 MSW 教育 思索



私が医療ソーシャルワーカーになろうと思ったのは、大学4年の7月の大学病院での実習がきっかけでした。

工学部を1年で自主退学し、2年次から社会福祉系の大学に編入した私は、当初、卒業後は渡英しチャイルドライフスペシャリストになろうと思っていました。ぷーたろー精神バリバリで、一般企業のシューカツもせずに、大学4年の夏を迎えた矢先の大学病院での実習でした。

経験20年越えの女性のMSWの方が実習指導者でした。
厳しくも優しい方でした。当時小学生のお子さんの子育てと部下を統括するプレイングマネージャーであったと記憶しています。
この方との出会いがなければ、私はこの職業につくことはありませんでした。

本エントリでは、大学4年時の病院実習と、それを振り返り考える「現任者の教育的機能の向上についての一案」について、思うところを述べていこうと思います。

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目次
1.大学4年時の病院実習を振り返る
2.実習生受け入れは、現場の教育的機能の向上を成すために活用可能な外部リソース
3.現任者は、教育に寄与できないのか?

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1.大学4年時の病院実習を振り返る


実習前に課された課題が2つありました。


ひとつは「自分はどういった人間か」という自己覚知を促すレポート。
そして2つ目は「自分が理想とするソーシャルワーカー像について」というレポート。
今思えば、この課題で私は実習生として値踏みをされていたようでした(後日談)


実習スタイルは「指導者から一時も離れずに行動する」というものでした。
面接場面も、カンファレンスも、精神科救急の保護室も、夜遅く、実習指導者とともに帰宅するという実習を14日間経験させてもらいました。


今、現場に身を置く中で、当時を振り返ると、実習指導者の方が、いったいどれほどのご自身の、部署のリソースを投入してくださっていたのかを想像するのは容易いです。
電話一本も、面接場面の機微も、すべては実習生の私の面前にありました。
それがいかに当時の私にとって価値のあることであったか。


私が、この仕事につこうと思ったのは、実習で出会ったとあるご夫婦と、そのご夫婦に対する実習指導者のソーシャルワーカーとしての関わりの過程を共有させてもらったことが一番大きなきっかけだったように思います。


危機的状況下でも、人間は能動的に変わっていくことができる、次の一歩を踏み出すことができる強さがあることを知り、「人ってすごいんだな」と素直に思えたことと、そして、その「変わっていく過程」のいっときを共有し、そのお手伝いができるソーシャルワーカーの仕事は価値がある、と感じたのです。


私が、14日間の実習のなかで、見て、聞いて、出会って、感じて、考えたことのすべてが、私のソーシャルワーカーとしての職業的屋台骨の根幹を成しているのだなあと7年経っても思います。そう思うたびに、実習指導者の方の、教育的な能力のすごさをあらわす言葉が見つからないことに気づきます。


8年前、14日間の実習を終えて書いたものです。
今読み返してもさほど違和感はない=職業的価値観のベースを14日間の実習で得たのだと想像します。過去エントリ:学生時代の病院実習で学んだこと



ソーシャルワーカーは困難を抱えた患者・家族と出会い、ソーシャルワーカーは患者・家族との関わりを通して、今、社会に存在する問題・不条理さを「知る」のであると思う。  
患者・家族の背中にある、社会に存在する問題・不条理さを知れる位置にいるソーシャルワーカーであるからこそ、社会を変えていくために発信し、行動を、ソーシャルアクションを行っていかねばならないと強く感じた。  

(8年前の実習記録から)


なんか、今言っていることと大して変わらないのは、成長していないからでしょうか…(笑)いえ、それほどまで、私の職業的価値観を形成するスタート地点としてインパクトをある実習経験だったのでしょう。


言葉という思想的な器に、7年が経ち、やっと色々なことが追いついてきたのかな、と思うと共に、それは次の段階への旅立ちの合図でもあるのかもしれないな、と今、思います。



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2.実習生受け入れは、現場の教育的機能の向上を成すために活用可能な外部リソース


現場実習で、ここまでの教育的能力を、多分なリソースを割いて提供できる現任ソーシャルワーカーは少数でしょう。

実践能力と、教育的能力は正比例しないと私は思っています。
ですから、機関に数名のソーシャルワーカーがいるのであれば、せめて年に1、2名でいいので、実習生を受け入れてほしいと思います。(実習希望者を募り、ふるいにかけるということくらいはしてもよいと思います。)

そして、受け入れにあたって、部署全体として「実習生の実習プログラム」を考えるという時間もとってほしいと思います。

だれかに伝える。だれかに教える。だれかに問われる。
この3つは、人を成長させるきっかけになります。

だからこそ、年に数カ月でもいいので、「伝える、教える、問われる」という構造を部署全体に生み出しましょう。それが、実習生を受け入れる、という外部リソースを活用することなのだと私は思います。
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3.現任者は、教育に寄与できないのか?

ソーシャルワーク部門は、多くの機関で少数です。
それゆえ、人材の流動性が低く、「教える」という機会に恵まれることも少ない訳です。

教育的機能を高める機会が極度に少ないソーシャルワーク部門において、その構造を自覚した上で、実習生という外部リソースの活用により、部署における教育的機能を高める機会を創出する、という思考展開ができるワーカー部門のトップは少数だと常々感じます。

私は、ソーシャルワーカーの養成・教育、そして学部教育がどうのこうのという論を聞くたび、「では、現任者として、そこにどう関わるか、どう寄与するか」という問いの不在を感じてきました。
かといって現任者教育に対しても、現場の人間はあまり興味(もしくは、”余裕”)はないようだと、職能団体の研修委員を通しても感じました。

実践・教育・研究の3つの柱をバランスよく築いていくことができない(意識もない)人間は専門職と名乗ることを恥ずべきだとさえ思います。

私の実習指導者の方は、きっと、専門職としての矜持があったのでしょう。
書籍の執筆、そして大学での講義や、実習生の受け入れなど、実践、教育、研究に痕跡を残されている方でした。

私は、安易な専門職論を好みません。
私は、自らの自己紹介等で「専門家です、専門職です」と名乗ったことは今まで一度もありません。というか、肩書きを名乗ることにあまり意義も意味も感じませんので。

「私は、専門職である」と自負し、腹の底にその言葉を瞬間に、専門職としては「死んでいる」と私は思います。真なる専門職とは「専門職とはなにか?」という問いを抱き続け、安易なこたえに逃げない人間なのだと私は思っています。

だからこそ、日々、問いを生み出し、問い続けることが必要なのです。

この業界をよくしていきたいと考えるのであれば、現場にいる人間として、現任者の教育について、どのように自分が寄与できるのかを考え続けていくべきだと私は思います。

1人ではできないことも、2人、3人であればできるはず。
教育に寄与することは、自分が通ってきた道を、2人、3人目が通れるように舗装することと同義だと考えます。

それこそが、自分を育ててくれたクライエントの方達、諸先輩方たちへの恩返しになるのではないでしょうか?



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