なぜ、日本のソーシャルワーカーたちは連帯できないのか?〜共通の文脈の欠落と創成について思考する〜
公開日: 2014/02/19 SCA 研究 思索 社会問題
社会福祉士の資格はあるが、それに「依って立ち」仕事をしているという実感がない人たちが多いのは、「社会福祉士」自体が、「歴史的に浅く、かつ、与えられた文脈しか有していないからだ」という仮説を立てている。
大学等でソーシャルワークという「輸入物」を学び、現場に出る前に「社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士」等という、「日本的」な文脈をインストールされるという構造自体に何らかの”乖離”を生む要因があるように感じてきた。
日本で教育を受けたソーシャルワーカーたちは、みな「輸入物」を学び、「資格という日本的な文脈」を付与されているが故に、大多数で共有可能な、みなが依って立つ「ソーシャルワーク観」を持つことができていない。
少なくとも私はそう感じているし、『大多数で共有可能な、みなが依って立つ「ソーシャルワーク観」』(大きな文脈)の欠如こそが、日本のこれからソーシャルワークを考えるさいのヒントになるのではないかと思いつつ、その仮説について、検証がすすめられないでいる。
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複雑化する社会の中で、おそらくソーシャルワークは今まで以上に「専門特化」し、分化していくのだと想像する。専門特化し分化すればするほど、「同じソーシャルワーカーであっても、隣の穴を掘っている同業者が何を考え、何を目指しているのか」がわかりづらくなるように思う。
「輸入物」を学び、日本的なるものを実装された日本のソーシャルワーカーたちには、そもそも前提条件として「私たちは○○だ」という共有可能な共通の文脈が存在しない。一方、社会はソーシャルワークの専門特化(分化)を要請する。
今後、社会からのソーシャルワークへの要請は高まることは間違いない。それは歓迎すべきことだけれども、反面、「私たちは○○だ」という共通の文脈を有しない日本のソーシャルワーカーたちを、より一層分化し、「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成をより一層困難にする。
日本のソーシャルワーカーたちが、自分たちが社会の要請に応え続け、専門特化した先にあるものが、「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成を一層困難にするという現実だ、という想定可能な未来を、逆算思考でどう変えていくか、どこにどうリーチできるかということを考える。
日本のソーシャルワーカーの中に「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成が、なぜ必要なのか、ついての私の中での答えはもう出ている。
日本のソーシャルワーカーたちに、共通可能な文脈が不在のまま、社会を支え続けられるほど、時代は生易しいものではなくなると想像したとき、SWたちを支えてくれるのは、思想的・社会システム的両側面からの「私たちは○○である」という”共通の文脈”であるのだと。
そんなことを言っていたら、SCAのK事務長から
「ある職業に共有可能な文脈は、その職業についた個人に、時にものすごい力を与えると思います。何でもありの異種格闘技大会でぼこぼこに殴られて逆転勝ちしたプロレス出身の格闘家が、インタビューで「俺はプロレスラーだから。」と言っていたことを思い出しました。」と一言をもらった。
非常に示唆的なエピソードだと思う。
おそらく、上記で展開した論は、どこかの領域で論ぜられていると思うので、ひっぱてきて、ちょっと、いろいろと考えたい。
あまりモタモタしていられないけれども、「共通の依って立つことの出来る文脈の創成」は、もの凄い時間を要する仕事でもある。だから、短期的な視座ではなく、自分が死んだあとの未来を、足りない頭で全力で想像しながら、ある程度のイメージが得られた未来の定点から、逆算思考で、今成すべき一手を思考しよう。
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毎日仕事辞めたいと思っていたヘタレだった7年前の自分も、少しは成長できたかなと思う。これからの1年、1年、なにを生み出し、なにが課題として都度残るのか。社会に対して生み出すことのできる価値の総量をどう最大化するかを考え続けていきたい。
いつもいつも思う。考え続けることができる強い意志がほしい。
迷いや躊躇や雑念が、考え続ける時間を奪い、足を止める。考え続けられることはひとつの大きな才能だ。外身の派手さはなくても、考え続けられれば、多くの価値を生み出せる可能性は増えていくと思うから。だから、考え続けることが出来る意思がほしい。
大きなビジョンと、小さなステップ。
”遥か遠くの頂きを見定めながら、確実な一歩を繰り出し続ける”というスタイルで、一歩一歩いこう。
大学等でソーシャルワークという「輸入物」を学び、現場に出る前に「社会福祉士、精神保健福祉士、介護福祉士」等という、「日本的」な文脈をインストールされるという構造自体に何らかの”乖離”を生む要因があるように感じてきた。
日本で教育を受けたソーシャルワーカーたちは、みな「輸入物」を学び、「資格という日本的な文脈」を付与されているが故に、大多数で共有可能な、みなが依って立つ「ソーシャルワーク観」を持つことができていない。
少なくとも私はそう感じているし、『大多数で共有可能な、みなが依って立つ「ソーシャルワーク観」』(大きな文脈)の欠如こそが、日本のこれからソーシャルワークを考えるさいのヒントになるのではないかと思いつつ、その仮説について、検証がすすめられないでいる。
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複雑化する社会の中で、おそらくソーシャルワークは今まで以上に「専門特化」し、分化していくのだと想像する。専門特化し分化すればするほど、「同じソーシャルワーカーであっても、隣の穴を掘っている同業者が何を考え、何を目指しているのか」がわかりづらくなるように思う。
「輸入物」を学び、日本的なるものを実装された日本のソーシャルワーカーたちには、そもそも前提条件として「私たちは○○だ」という共有可能な共通の文脈が存在しない。一方、社会はソーシャルワークの専門特化(分化)を要請する。
今後、社会からのソーシャルワークへの要請は高まることは間違いない。それは歓迎すべきことだけれども、反面、「私たちは○○だ」という共通の文脈を有しない日本のソーシャルワーカーたちを、より一層分化し、「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成をより一層困難にする。
日本のソーシャルワーカーたちが、自分たちが社会の要請に応え続け、専門特化した先にあるものが、「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成を一層困難にするという現実だ、という想定可能な未来を、逆算思考でどう変えていくか、どこにどうリーチできるかということを考える。
日本のソーシャルワーカーの中に「いつでも立ち戻り、依って立つことのできる共有可能な文脈」の創成が、なぜ必要なのか、ついての私の中での答えはもう出ている。
日本のソーシャルワーカーたちに、共通可能な文脈が不在のまま、社会を支え続けられるほど、時代は生易しいものではなくなると想像したとき、SWたちを支えてくれるのは、思想的・社会システム的両側面からの「私たちは○○である」という”共通の文脈”であるのだと。
そんなことを言っていたら、SCAのK事務長から
「ある職業に共有可能な文脈は、その職業についた個人に、時にものすごい力を与えると思います。何でもありの異種格闘技大会でぼこぼこに殴られて逆転勝ちしたプロレス出身の格闘家が、インタビューで「俺はプロレスラーだから。」と言っていたことを思い出しました。」と一言をもらった。
非常に示唆的なエピソードだと思う。
おそらく、上記で展開した論は、どこかの領域で論ぜられていると思うので、ひっぱてきて、ちょっと、いろいろと考えたい。
あまりモタモタしていられないけれども、「共通の依って立つことの出来る文脈の創成」は、もの凄い時間を要する仕事でもある。だから、短期的な視座ではなく、自分が死んだあとの未来を、足りない頭で全力で想像しながら、ある程度のイメージが得られた未来の定点から、逆算思考で、今成すべき一手を思考しよう。
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毎日仕事辞めたいと思っていたヘタレだった7年前の自分も、少しは成長できたかなと思う。これからの1年、1年、なにを生み出し、なにが課題として都度残るのか。社会に対して生み出すことのできる価値の総量をどう最大化するかを考え続けていきたい。
いつもいつも思う。考え続けることができる強い意志がほしい。
迷いや躊躇や雑念が、考え続ける時間を奪い、足を止める。考え続けられることはひとつの大きな才能だ。外身の派手さはなくても、考え続けられれば、多くの価値を生み出せる可能性は増えていくと思うから。だから、考え続けることが出来る意思がほしい。
大きなビジョンと、小さなステップ。
”遥か遠くの頂きを見定めながら、確実な一歩を繰り出し続ける”というスタイルで、一歩一歩いこう。
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