ソーシャルワーク実践と起業を行き来し考えたこと 〜文脈疲弊から文脈創成へ〜
公開日: 2014/02/09 MSW SCA イベント 思索 自己覚知 社会起業
本エントリは、対人援助職として現場に立ちつつ、社会に対して仕掛ける”起業”の準備をすすめる中で考えた「他者の文脈に潜る、自分の文脈を押し出す」という概念について、「ソーシャルワーク実践と起業を行き来し考えたこと 〜文脈疲弊から文脈創成へ〜」と題し、記していこうと思います。
私は日頃は医療機関でソーシャルワーカーとして勤務しています。
日中は病院で、MSWとして働き、夜と休日は Social Change Agency のことを考える、という時間を半年くらい過ごす中で、相手の文脈に潜る(実践)、自分の文脈を押し出す(起業)の両極端を行き来する負荷と弊害と向き合っていて、最近やっと「道が開けた」感があり、すこぶる思考がクリアな感じがしています。
キーワードは、曲線的(実践)、そして直線的(起業)。その2つの線を編み合わせて、ストーリーを紡ぐ。このイメージが自分の中にピタッとはまり、実践と起業が、水と油ではなくなり、完全にハイブリットと化した感があります。
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ここ半年、日中は、病院でクライエントと関わり、夜と土日は「社会に対してどう仕掛けるか」ということを考えるとき、モードとモチベーションの駆動装置を切り替える必要がありそうだということは、常々感じていました。
本エントリでは、
現場でのソーシャルワーク実践→他者(クライエント)の文脈に潜る
起業等、社会に仕掛けること→自分の文脈を押し出す
と定義します。
厳密には未だ起業したわけでもなんでもないのですが、
自分が社会に対して「成し得たい」と強く思うことができなければ、そのことに対する熱量はあがらず、結果、人を惹き付けたりすることが難しいというのは一般的にも頷ける話です。
ですが、それを安易にソーシャルワークの現場に持ち込むことに、私は疑問を抱くとともに、その疑問が、私をここ半年間だいぶ苦しめました。なぜならば、「社会に対して成し得たい」と強く思うことは、良くも悪くも個人の自己実現欲求と切り離すことができないと考えるからです。
私の場合は「機会の平等」というテーマになるのですが、ここでそれを書きますと本旨から逸れますので、「ああ、そうなんだ」くらいに思っていただければよいです。
と前置きが長くなりました。
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1.現場での実践→他者(クライエント)の文脈に潜る
「他者(クライエント)の文脈に潜る」というのは、そのとき、そこに在る”温度感”や、そこで交わされるすべてのものに宿る”テンポや音”に「微睡む(まどろむ)」、いや、「微睡んでいく」という能動的な”構え”のようだと私は思っています。
”構え”というと堅いですが、”微睡むという能動的な構え”は私にとって大切なのです。
”微睡むという能動的な構え”は、目の前で文脈を紡ぐ患者さん家族に対し、ときに、援助者としての自らのカラダを舞台化させたり、舞台装置化させたりするときに、私には必要な概念。それは援助者から発せられる存在のノイズを減らす方に働きます。
意図して、援助者としての自分のカラダから発せられるノイズの”強度”が必要ないとき、いや、ノイズを抑えるべきだと判断したとき、とるべきは、”微睡むという能動的な構え”であって、そうすることで、クライエントの文脈構築のプロセスにおいて、援助者は様々な役割をとれると私は思います。
ですから、「他者(クライエント)の文脈に潜る」という実践におけるイメージングが私には必要なのです。
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2.起業等、社会に仕掛けること→自分の文脈を押し出す
ですから、自分の文脈を押し出す(言わば、ノイズの音量を最大化する)ことは、現場においては、適切ではないモードであると考えています。
援助者は決して他者(クライエント)の文脈の中で、援助者である自分の文脈を被せ、文脈を書き換えようとしたりは決してしません。してはいけません。
ですが、社会に何かを仕掛けたりするとき、どうしてもそこには”自分の文脈”を社会に対して全面に押し出す必要があるし、そもそもそれ自体がなければ、イメージの実現可能性は著しく低下するでしょう。
他者の文脈の中に潜るには、自分の文脈をマナーモード、いや電源オフにしておくことさえ必要であったりするのです。それでも微弱な文脈漏れがある。ゼロには絶対にできない。でも逆に、自分の文脈を社会に押し出すには、マナーモードにするどころか、音量マックスで、他者の文脈(という音源)さえをも活用し、主旋律を奏でることが必要になるわけです。
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3.「他者の文脈に潜る、自らの文脈を押し出す」を両立させる概念
「他者の文脈に潜る、自らの文脈を押し出す」この2つを、ひとつの軸の上でイメージすると、両極を行き来するような感じで負荷がかかるのです。言わば、双方が悪影響を及ぼし合うというイメージです。
実践の場で、「自分の文脈が制御不能に陥り、クライエントの文脈を無意識のうちに覆いかぶせ、書き換えようとした」なんていうことは、私にとって、決してあってはならないことです。
そんなとき、文脈の両極端を”直線”上で行き来するのではなく、
「タテ、ヨコ、タカサ」のある、”空間”を想起しました。
つまりは、両者の間を、”直線的”のみではなく、
”曲線的”な文脈を交えた行き来をするというイメージです。
”曲線的”な文脈を交えた行き来をするというイメージです。
「他者の文脈に潜る、自らの文脈を押し出す」を、ひとつの軸上を行ったり来たりすると、その反動で疲弊します。
曲線的な文脈の行き来のほうが、カラダにやさしいのです。
曲線的な文脈の行き来のほうが、カラダにやさしいのです。
直線的な行き来による文脈疲弊ではなく、ストーリーを編み込むプロセスだと考えました。
これは、文脈の行き来による”疲弊”ではなく、文脈×文脈=”ストーリーの編み込み”
つまりは、創成だと、私は、腑に落ちたのです。
つまりは、創成だと、私は、腑に落ちたのです。
直線は交差はできるけれど、編み込むことはできません。
やさしい曲線的なイメージを交え、「他者の文脈に潜る、自らの文脈を押し出す」を繰り返すことができれば、援助者としての実践と社会に仕掛ける起業は、同様に編み合われていけるような、そんな暫定的な概念を得たのです。
やさしい曲線的なイメージを交え、「他者の文脈に潜る、自らの文脈を押し出す」を繰り返すことができれば、援助者としての実践と社会に仕掛ける起業は、同様に編み合われていけるような、そんな暫定的な概念を得たのです。
曲線的に他者(クライエント)の文脈に潜り、直線的に自分の文脈を社会に押し出す。
そして、その過程で、編み込まれた文脈たちが、ストーリーを創成する。
上記はだいぶ荒削りっぽい感もありますが、これをベースに定義をいじり、アップデートしながら、内的世界で稼働させ得るものかどうかを試行していこうと思っています。
なにごともにも、試用試行期間があっていいのです。
私は、自己内定義について、いつもそのようにします。
たたき台をつくり、とりあえず採用し(インストールし)、
日々それを使い、更新し、馴染まないものであれば、アンインストールすればいい。
私は、ハタチ以後、いつだって、そうやって生きてきました。
ですから、これからも、そのやり方で、生き抜いていくのみです。
私は、自己内定義について、いつもそのようにします。
たたき台をつくり、とりあえず採用し(インストールし)、
日々それを使い、更新し、馴染まないものであれば、アンインストールすればいい。
私は、ハタチ以後、いつだって、そうやって生きてきました。
ですから、これからも、そのやり方で、生き抜いていくのみです。
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