”生活問題”対処の最後の砦としての急性期病院に勤務するソーシャルワーカーとして思うこと
そんな言葉が、いつも頭にある。
なぜ、最後の砦なのか?
それは、”生活問題の堆積量”最大化の先に”生命の危機”が存在するからだ。
”生命の危機”に近ければ近いほど、”生活問題の堆積量”は多い。
大学病院等の三次救急を担う医療機関ならともかく、二次救急を担う医療機関の多くは、慢性疾患の増悪や、脱水、食欲不振等、生活問題が堆積した後にくる”生命の危機”に瀕した高齢の患者さんが、機関の主たる対象者だ、ということに多くの二次救急医療機関のソーシャルワーカーは同意するだろう。
生命の危機→救命→生活問題の噴出→生活問題への初期対処→生活の再設計
多くは、この経過を辿る。
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お昼時の病棟。
急性期病院だというのに、病棟デイルームはまるで老人ホームのようだ。
車いすに乗り、エプロンを首から下げ、食事が運ばれてくるのを待つ高齢者たち。
食事介助をされ、黙々と無言で栄養を”摂取していく”
病室には、点滴に繋がれた意識の朦朧とした高齢者たち。
患者さんの配偶者が認知症で、病室にたどり着けないなんてこともある。
悲しいかな、急性期病院のソーシャルワーカーたちの多くは、
”生命の危機”というフェイズ”後”のクライエントに出会うことがほとんどだ。
わたしは、その前提条件を考えるとき、いつも、未然に防ぐことのできることの多いであろう”生命の危機”という段階に至るプロセスを、遡って考えることが必要だという結論に至る。
だがしかし、それをどうにも為し得ないで、7年間が経ってしまった。
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経済的問題への介入というのもまた非常に多い。
この仕事をはじめてから、ネットカフェで寝泊まりし、
派遣労働者として働く人に、何人も出会った。
40、50代、意識曖昧、身元不明で、保険証も確認できず、支払い能力の有無もわからない患者さんに対し、入院日にHCUで、「○○さーん!!ちょっといいですかーー!!??保険証ありますー!?誰かと一緒に住んでますー!?」と耳元で大声で問いかけ、焦点の合わない目線と頷きから、情報を得たりすることも幾度もあった。(患者さんの医療を受ける権利と共に、医療機関の経済的損失を最小限に留めるという組織の論理も存在する)
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・個人の力
・個人が有する社会関係資本
・様々なセーフティネット
小さな問題たちは、これらから零れ落ち、生活問題として堆積する。
そして、その果てが、”生命の危機”だ。これは、断言できる。
カラダとココロが疲弊し、カラダが先にダウンした先には、”生命の危機”が待っている。
「アウトリーチせねばならない。生活問題の堆積に至る前に。」
自分を含め多くの医療機関のソーシャルワーカーはそう思っているだろう。
そして、”生命の危機”→”生活問題の噴出”という過程を間近でみている医療ソーシャルワーカーたちには、その過程を逆算思考し、地域の実情に即した、予防的なアプローチとして有効な方法を考えることのできる実践知があるはずだとも思う。
だがしかし、それを妨げている一番の理由が”多忙さ”であろう”とも”思う。
在院日数の短縮化により、生活問題への初期対処、生活の再設計をサポートするための時間は限られ、そして、地域の関係機関からの相談窓口機能も担い、そして、地域包括ケアシステム構築に向けた地域会議への招集などもある。
日本医療社会福祉協会は、50床にひとりのソーシャルワーカーの設置を求め、政治的な動きをすすめていると聞く。これについては、同業者として賛同するとともに、それを成し得た未来を見据え、その担い手(社会の支え手)をこの業界に招き入れねばならないと思う。
50床にひとり設置はいいけれど、実はその担い手が存在しませんでした。
そんな未来も、今のままでは、想像し得る未来、だ。
多くをドラスティックに変えることはできない。
社会に存在する人々を、担い手(社会の支え手)としてこの業界に招き入れるには、
それ相応の準備が必要だと常々思う。これはあまりスポットライトはあたらないが、未来を見据えたとき、為すべき意義のある大きな仕事だと私は考えている。
自身の未来予測と、捉えている現状を照らし合わせ、
今為すべきことを大局的な視座で考えたい。
そういう仕事を、誰かがしなくてはいけないと思うから。
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