援助者としての自分を守る”精神論”、”こうあるべき論”という鎧をどう脱ぐか
公開日: 2013/12/03 MSW エッセイ キャリアデザイン 思索
「私は絶対にあきらめない」と言葉にする援助者に、私はいつも危うさと脆さをみる。
”精神論”で人の人生のいっときを支えられるなら、いくらだって精神修行でもなんでもするだろう。
「私は絶対にあきらめない」等の”精神論”を現場で語る人に”脆さ”をみるのは、”精神論”と、自らの援助者としての価値観がセットになっていることがほとんどだと見受けられるからであり、そして、危うさをみるのは、それがクライエントに向けられる刃になり得ると考えるからだ。
【参照過去エントリ】
・”暴走する援助者としてのカラダ”〜クライエントシステムを切り刻む”特権的破壊の刃”化を防ぐために〜
・「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」について考える
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目次
1.尊厳を踏み躙られたと人が感じるとき
2.援助者として、臆病であるということ
3.安易なラベリングという行為を捨て去る先にみえるもの
4.他者を理解することはできない、けれど。
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1.尊厳を踏み躙られたと人が感じるとき
「精神論」は容易に「こうあるべき論」を誘発するというリスクも有している。
クライエントの価値や文化という背景を無視するような「これが安心安全だから、これで大丈夫だから」等、”こうあるべき論”を全面に出した援助の枠組みは、無菌室のように、意図せずとも、相手の価値や文化を雑菌のように扱うことになるとずっと、ずっと思ってきた。
人は、自分の価値観や大切にしているものを
蔑ろにされたとき、傷つき、そして相手に失望する。
私は,そう思う。
万人に共通の「こうあるべき論」なんて存在しない。
だから、意図せずとも、”こうあるべき論”を全面に出した援助の枠組みは、
バイスティックは、援助者は、価値や判断の基準の一般的な本質をしっかり理解しておく必要があると言い、そして、それらを理解するための「ものさし」は、一方の端に本質的な価値(法律や道徳を守るなどの重要な価値)が置かれ,逆の端には比較的重要でない価値(家事の進め方などに関するあまり重要ではない価値)が配置されているような尺度である、と述べた。
援助者の表現と限られたイメージの拡張は、
それが想像力の幅を持たせることなり、クライエントへの理解を助ける。
「わたしの、なにかを、この人に理解してもらえたかもしれない」
と感じるときはどんなときだろう?
それは、きっと、見せかけのポーズなどではない、
「目の前にいる人が、わたしに対して、想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することに、あらゆる努力を惜しんでいない」という過程自体が、メッセージとなり、あいてに少し届く,くらいのことなんだろうと思う。
少なくとも私は、「わたしの、なにかを、この人に理解してもらえたかもしれない」と感じるとき、上記のようなことを思うのだ。
他者を理解することなんて、できない。
だからせめて、「相手への想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することに、あらゆる努力を惜しんではいけない」のだと思う。
きっと、援助者は、そこから、はじめなければならないのだろうと思う。
わたしは、現場で、ゆるやかに、佇むように、そこに在る、ことを目指したい。
いや、そう在ることをイメージして、現場に立ちたい。
ゆるやかさは、多様なイメージの入り込む余地を生んでくれる。
それを人は余裕と呼んだりもする。
わたしは、自分の中に一定の”余白”をもっていたいな、といつも思う。
余白があれば、都度、想像外のことを頭の中で書き留めておける。
”余白”というラベリングを排することのできる自分の頭の中の領域で、
「相手への想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することへのあらゆる努力」を試みることができるから。
”余白”は、精神論からは、決して生まれない。
どう、たたずむか、どう構えを崩すか。
自分を守る”精神論”、”こうあるべき論”という鎧をどう脱ぐか。
わたしは、援助者として「中堅」に足を踏み入れた。
今まで、援助者としての自分を守るために着重ねてきた幾重もの鎧を
少しずつ、脱ぎはじめなければならない時期に差し掛かったのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
私は,そう思う。
万人に共通の「こうあるべき論」なんて存在しない。
だから、意図せずとも、”こうあるべき論”を全面に出した援助の枠組みは、
対象者の価値や文化を排す方向に働いてしまう。
いち援助者の”厚み”しかもたない”こうあるべき論”の射程距離なんて、
たかが知れているし、”こうあるべき論”は、援助者自身の自覚的な範疇の中で収まるべきもので、クライエントに対して向けるメッセージとして用いられるものではないはずだ。
援助者は、臆病なくらいでちょうど良いと私はいつも思っている。
臆病というのは、逡巡することではなく、自分が為すことの先に生じるであろうことの、想像を1ではなく3くらいできるということだ。
援助者としての”価値観”が、ときに対象者の生活の根幹を形成している価値や文化を傷つけたり、エラーを起こすリスクになり得るということに、わたしは臆病な程に、自覚的でありたい。
いち援助者の”厚み”しかもたない”こうあるべき論”の射程距離なんて、
たかが知れているし、”こうあるべき論”は、援助者自身の自覚的な範疇の中で収まるべきもので、クライエントに対して向けるメッセージとして用いられるものではないはずだ。
2.援助者として、臆病であるということ
援助者は、臆病なくらいでちょうど良いと私はいつも思っている。
臆病というのは、逡巡することではなく、自分が為すことの先に生じるであろうことの、想像を1ではなく3くらいできるということだ。
援助者としての”価値観”が、ときに対象者の生活の根幹を形成している価値や文化を傷つけたり、エラーを起こすリスクになり得るということに、わたしは臆病な程に、自覚的でありたい。
バイスティックは、援助者は、価値や判断の基準の一般的な本質をしっかり理解しておく必要があると言い、そして、それらを理解するための「ものさし」は、一方の端に本質的な価値(法律や道徳を守るなどの重要な価値)が置かれ,逆の端には比較的重要でない価値(家事の進め方などに関するあまり重要ではない価値)が配置されているような尺度である、と述べた。
その人を理解するように努めよ、というのは、表面に浮かび上がる言葉をキャッチして審判するのではなく、その人の依って立つ価値や文化、大切にしているものへの想像力を働かせることだ。
クライエントへの完全なる理解は不可能だけれども、想像力を働かせ、豊かなイメージを持つこと自体が、事象への安易な審判を防ぎ、クライエントの生活の根幹を形成している価値や文化を大切にし、尊重する、ということなのだと私は思う。
3.安易なラベリングという行為を捨て去る先にみえるもの
この人はこういう人だ、という対象者への安易なラベリングに、私が警鐘を鳴らすのは、行為自体が、援助者自身の手持ちの表現で為されることであり、援助者の表現と限られたイメージの中にクライエントは留まるが故に、その範疇外に在る対象者の価値や文化を排する方向に向かわせるからだ。
【参照過去エントリ】
【参照過去エントリ】
・「他者ラベリング」が対人援助職にとって禁忌である理由について考える
クライエントをラベリングすることは、「未知」という恐怖から人を守る防衛機能として働く。人はわからないもの、得体のしれないものに恐怖を感じる。ラベリングすることで、クライエントと、どう対峙すべきかという体勢がとれる。
完全なる脱ラベリングは困難だとしても、どうラベルを貼ったのか、その意味を自覚することで、援助者の表現と限られたイメージは、拡張することができると考えている。
完全なる脱ラベリングは困難だとしても、どうラベルを貼ったのか、その意味を自覚することで、援助者の表現と限られたイメージは、拡張することができると考えている。
援助者の表現と限られたイメージの拡張は、
それが想像力の幅を持たせることなり、クライエントへの理解を助ける。
「わたしの、なにかを、この人に理解してもらえたかもしれない」
と感じるときはどんなときだろう?
それは、きっと、見せかけのポーズなどではない、
「目の前にいる人が、わたしに対して、想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することに、あらゆる努力を惜しんでいない」という過程自体が、メッセージとなり、あいてに少し届く,くらいのことなんだろうと思う。
少なくとも私は、「わたしの、なにかを、この人に理解してもらえたかもしれない」と感じるとき、上記のようなことを思うのだ。
4.他者を理解することはできない、けれど…
他者を理解することなんて、できない。
だからせめて、「相手への想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することに、あらゆる努力を惜しんではいけない」のだと思う。
きっと、援助者は、そこから、はじめなければならないのだろうと思う。
わたしは、現場で、ゆるやかに、佇むように、そこに在る、ことを目指したい。
いや、そう在ることをイメージして、現場に立ちたい。
ゆるやかさは、多様なイメージの入り込む余地を生んでくれる。
それを人は余裕と呼んだりもする。
わたしは、自分の中に一定の”余白”をもっていたいな、といつも思う。
余白があれば、都度、想像外のことを頭の中で書き留めておける。
”余白”というラベリングを排することのできる自分の頭の中の領域で、
「相手への想像力を働かせ、豊かなイメージを持つことにつとめ、それをあらわすための言葉や非言語のメッセージを表出することへのあらゆる努力」を試みることができるから。
”余白”は、精神論からは、決して生まれない。
どう、たたずむか、どう構えを崩すか。
自分を守る”精神論”、”こうあるべき論”という鎧をどう脱ぐか。
わたしは、援助者として「中堅」に足を踏み入れた。
今まで、援助者としての自分を守るために着重ねてきた幾重もの鎧を
少しずつ、脱ぎはじめなければならない時期に差し掛かったのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
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