ソーシャルワーカーとして、積み重ねるべき”層”を見極める眼を持つということ(雑感
ジャンクフードよりスイーツが好きな男子としては(笑)、この仕事は、ハンバーガーくらいの厚みの積み重ねよりもミルフィーユ的な「層」のような積み重ね方が似合うな、と思う。
「これくらいの厚みでもいいか」と、丁寧に層を重ねることを省くと、後々、ほころびが出る。
これはやらなくても80%くらいはOKだろうけど、もう1枚かませておけば、90%になるだろう、と気づいているのなら、省くのはやめるべきだと日々思う。
その1枚をかませることで、時間の経過とともに、”1枚の意味の厚み”は増えていく。
1枚は、時間軸の中で、2枚にも3枚にもその厚みを変える。
”援助者としてケースに丁寧に関わる”、というのは、単に時間をかけるということではなく、必要なプロセスをしっかりと踏む=層を重ねる、ということだ。
「時間がないから、丁寧な関わりができない」という論理は、整合性があるようで、じつはそうではないのだと思う。
経験年数とそれに伴う実践の丁寧な振り返りを行なう先には、ケースを俯瞰する”眼”が鍛えられ、ケース全体の解像度があがっていく。(ケース全体が細かく、みえるようになっていく。ぼんやり感が少なくなっていく)という状態がある。
解像度が上がれば、”層”をミルフィーユのように丁寧に積み重ねることが可能になる。
鍛えられた”眼”は、時間短縮ではなく、然るべく積み重ねるべき”層”の見極めに用いられるべきだと、そう思う。
であるからこそ、いくら経験年数を積んでも、仕事というのは楽にはならない。
眼が鍛えられ、解像度が上がれば上がるほど、積み重ねるべき”層”がはっきりと見えるようになるから。
でも、これはとても楽しいことでもある。
”積み重ねるべき層”が見える眼を得られたこと自体が、自分自身に援助者としての歩みがどのようなものだったかを教えてくれるのだから。
丁寧に。
そう、丁寧に積み重ねよう。
「時間がないから、丁寧な関わりができない」という論理は、整合性があるようで、じつはそうではないのだと思う。
経験年数とそれに伴う実践の丁寧な振り返りを行なう先には、ケースを俯瞰する”眼”が鍛えられ、ケース全体の解像度があがっていく。(ケース全体が細かく、みえるようになっていく。ぼんやり感が少なくなっていく)という状態がある。
解像度が上がれば、”層”をミルフィーユのように丁寧に積み重ねることが可能になる。
鍛えられた”眼”は、時間短縮ではなく、然るべく積み重ねるべき”層”の見極めに用いられるべきだと、そう思う。
であるからこそ、いくら経験年数を積んでも、仕事というのは楽にはならない。
眼が鍛えられ、解像度が上がれば上がるほど、積み重ねるべき”層”がはっきりと見えるようになるから。
でも、これはとても楽しいことでもある。
”積み重ねるべき層”が見える眼を得られたこと自体が、自分自身に援助者としての歩みがどのようなものだったかを教えてくれるのだから。
丁寧に。
そう、丁寧に積み重ねよう。
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