コミュニケーションにおいて容易にラベリング論を採用することについて考える

公開日: 2013/05/11 MSW SW解体新书制作委员会 コミュ論 思索



人は、他者にしてもモノゴトにしても、決めつけたり、「この人は、こういう人だ、これは、こういうことである」と、ラベリングしたほうが、楽だと感じるのだと思う。

人はなんだか得体の知れないもの、「自分にとって未知のもの」に恐怖を感じる。
「この人は、こういう人だ」という「未知を既知にする」ラベリング論は、その恐怖から逃れる術のひとつでもある。

「こういう人だ」という認識ラベルがあれば、その内容に関わらず「そういう人」として付き合えばいいわけなので、その都度、他者との「向き合い方、付き合い方」を迷い、悩み、考える必要性や時間が減る。これは、コミュニケーションコストを減らし、楽に生きていくためのひとつの方法論であるわけなので、プライベートで行なうそれをとやかく言うつもりはない。



けれども、対人援助職としてクライエントと出会う時は、楽なラベリング論に逃げてはいけないと思う。それをやってしまうと、対人援助職としてのセンサーは劣化してしまう。


「この人は、こういう人である」というラベリング論を採用すると、クライエントの揺れや変化をキャッチできなくなり、援助者が肌で感じる全てのノイズ(違和感)は「やはり、この人はこういう人である」というラベリング論を強化する方に集約されてしまう。


これでは、バイスティク先生が激怒されるだろう。
(同業者でこの意味がわからない人は、ケースワークの原則をお読みください)


日常生活で行なう「こいつはこういうヤツだ」というラベリング論を封印し、クライエントと対峙するからこそ、「揺れや変化」をキャッチする余地を生み出すことができる。



私は、真意とか、ニーズを引き出すとか、この仕事に馴染まない言語運用をする人間は、どうにも信用できない。

ソーシャルワークに客観的事実の収集は確かに必要ではあるけれど、この仕事は、一段上からクライエントを観察してる分析家ではない。軸足を職業的価値に置き、もう片っぽの足で、対象者の揺れや変化に沿え、付き合うことなくして、共有できるこたえなんてものはない。


共有できるのは対峙する時間だけだ。
そして、その共有する時間でさえ、微々たるものだ。


24時間のうちどれくらいか?

クライエントの今までの人生でどれくらいか?

たった少しの時を共有したくらいで何がわかるのか?


断定するな、ラベリングするな。専門家ぶって分析するな。
援助者はクライエントにとっての不在の他者なのだという認識がないと視界はひらけない。


この仕事にとって大切なことを、大事に丁寧に気づいていく時間を大切にするべきだといつも思う。現場7年目にもなれば、業界への還元義務が生じる。
育ててもらった業界と、先輩と、そしてなにより、一番の育ての親である今まで出会ったクライエントへの恩義を果たすには、自分が得た学びを、閉じるのではなく、ひらいていくべきだと思っている。


そうすることで、一番の利を得るのは、長期的には自分自身なのだということにも気づいているので、尚更そう思う今日この頃。



【この仕事につく人であれば、必ず読んでおくべき一冊です。】




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