対人コミュニケーションにおける「好、信、嫌、疑」というベクトル要素について考える

公開日: 2013/05/30 MSW コミュ論 思索

「対人コミュニケーション」においては、他者に対して有意な働きかけをする以前に、相手に向けて発せられる”ノンバーバル(非言語)なものの集合体(ベクトル)”が大切だと対人援助の仕事をしていると日々思う。

ノンバーバルというと、服装や表情、佇まいなどがあげられることが多いが、本エントリでは、ノンバーバルなものの集合体について、相手に向けられる「感情」と「行為」に分け、その要素も含め、考えていこうと思う。



まず、ノンバーバルなものの集合体を、「好、信、嫌、疑」という4つの要素に分解して考えた。そのように定義すると、次は、「要素をどう組み合わせ、他者に向けるか(ベクトル化するか)」ということについて考えが及ぶ。

だが、この4つの要素は、容易には意図して分量調整はできないし、選択もできない。
思うに生育歴とか、人とどう向き合おうとしてきたのかとか、そういった時間の蓄積により生まれる堆積物のような気がしている。

大学時代に出会ったソーシャルワーカーの方が

この仕事には、無条件に愛されてきたお嬢様・お坊ちゃんが本質的には向いている。
無条件に愛を注がれた人間は、他者に無条件に愛を注げるから」

と言っていたのを思い出す。


そして、この言葉は「好、信、嫌、疑」の中でいう「好、信」によるベクトルを、親や親族、周りの大人からいっぱいに受けた子どもが、大人になると「好、信」のベクトルを無条件に発することができる、ということを言っていたのだろうなと思う。


「好、信」により成されているベクトルを有している人のほうが、対人コミュニケーションにおいて、余計なコンフリクトを生むことは、「嫌、疑」ベクトルよりも総じて少ないだろう。誰だって、他者から「好、信」というベクトルを向けられた方が、心地よいし、安心して相手に向き合えるだろうから。


「好、疑」であれば、相手との関係を良好に保とうとしながらも、相手の意を注意深く見極めようというベクトルになるやもしれないし、分量によっては「好、疑」は、「好きだけれども、信じられない」という苦しい状況を生み出す。

「嫌、信」であれば、「人としては嫌いだけど、一緒に組む相手としては信頼できる」という冷静なスタイルを保つベクトルを向けられるかもしれない。また、職業的に「嫌、疑」ベクトルを発すべき仕事もあるだろう。


そして、例えば「好、信、嫌、疑」が、「好(5)、嫌(0)、信(3)、疑(2)」などというように、4つの要素の比重が異なり生成される”ノンバーバルなものの集合体(ベクトル)”もあるだろう。


どれがいいとか悪いではなく、言葉を放たれる前の「相手から受けた印象」が、「好、信、嫌、疑」をどう組み合わせたベクトルなのか、というざっくりとした体感値を蓄積させておくと、身体データベース化され、役に立つのではと考えている。



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