社会的活動がもつ代弁機能と、そこに関わる個人との関係性についての一考察
公開日: 2013/03/11 思索
ボランティア団体や当事者団体、NPOなど、社会的活動をミッションとしている団体、そこに関わる人たちについて、最近考えていたことを少し。
常々思うのは、ひとつの対象や活動に固執し続けると、いつしか、その対象を通し(悪く言えば、その影響力を利用し)、社会に対して、個としてのメッセージを発する、ということが起こりうるのだ、ということ。これは、言わば、個としての利や承認欲求を優先してしまう、という可能性を有している、と言い換えることもできる。
この可能性は決してゼロにはできない。
個々人が意図せずとも、そういう危険性があるということを、
私は自身の経験として知っている。
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私個人の話になるが、学生時代、とある社会的問題に対してアプローチを行なうボランティア団体を有志たちとで立ち上げた経験がある。当時、パトロンになってくれるという方から「ボランティア団体ではなく、もっと活動を広げてみないか」と声をかけてもらったことがあった。
今思い返すと、そのとき、「はい」と答えていたら、きっと自分は活動を通じて「個としての承認欲求」を満たすことになり、もしミッションが果たされたとしても、その活動と決別できなかったかもしれないと思う。その活動に卒業後も全身全霊を込める覚悟もなかったわけなので、尚更だった。
学生時代に立ち上げたその団体は今年で設立9年目を迎える。
ひとつの社会資源として根付いてくれたことが嬉しいと思う。
そして、完全なる代弁の不可能性、そして「考えてもらうために知ってもらうこと」の意義を考える機会を与えてくれた大きな学びの時間だった。
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本当になし得なければならないミッションを果たしたはずなのに、その対象と綺麗に決別できない団体や人の病理はおそらく、対象や活動が媒体となり(力となり)、個人として発したいメッセージの波及力を高めるがゆえに、そこから離れられなくなってしまったということなのだと思う。
「活動」とは、その「活動対象となる領域にいる人たちの利益(当事者と称される)」と「領域外から、個として活動に関わる人間(支援者と称される)の持つ何かしらの欲求」を両輪とし、動力としてのエネルギーを捻出し続けるのだと思う。
世に何らかの問題を提起し続ける「アドボカシー」型の団体に出会うとき、わたしは、その主になる人たちが訴えることを注意深く聞くことにしている。
社会を変えたいのか?
だとしたら、誰のために変えたいのか?
主になる人たちの利になることを叫んではいないか?
承認欲求を満たすため「だけ」の活動になってはいないか?
誰もが、最初は、思いがあって活動をはじめる。
社会になにかを投げかける。
でも、それがいつまでも、変わらないでいるということは難しい。
人が成すことだから、人が変わっていく存在である以上、
活動が内包するものたちも変わっていかざるを得ない。
大切なのは、活動をする人たちが、それに自覚的であるかどうか。
「活動対象となる領域にいる人たちの利益(当事者と称される)」と「領域外から、個として活動に関わる人間(支援者と称される)の持つ何かしらの欲求」の両輪のバランスは、メンバーや時間の流れによって変わっていく。
どっちがいいとか悪いの問題じゃない。
そのバランスの程度の問題だと思うから。
両輪のバランスがいい団体は、息長く、ミッションに対し、粘り強くアプローチできるのだと、最近、改めて、色々なことを思い出しては、そう思う。