患者さん家族と「共体験」を得るということ
公開日:
2012/12/19
MSW
コミュ論
思索
「お正月を元気に迎えられそうでよかった。」
半年くらいの付き合いの患者さんのご家族がそう言った。
返り際、そのご家族が顔だけ少し振り返り、お辞儀をしながら、少し右肩をあげたように見えた。思わず、こちらも少しだけ右手をあげて、「よいお年を、ですね!」と言ったら、奥さんが思い切り右手を上に上げて、「よいお年を!来年もよろしくね!』ととってもよい笑顔で笑った。
患者さん自身は、重篤な病気を抱えている。だから尚更、「来年」の意味の重みが、ご家族にとっては、今までとは違うものに思えたのかもしれないな、とそんなことを思った。
日々、患者さん家族とかかわるなかで、刹那的な感情のやり取りとか、そういうことに全神経を集中させるべき瞬間というのがあるのだ、ということを思う。
いい表現が浮かばないのだけれど、「アジャストする(させる)」という感覚。
相手が嬉しいと感じているだろうときに、そのメッセージが発される瞬間に、こっちも笑ってみせる。
相手が微笑む一瞬前に、こちらも一緒に微笑んでみせる。相手が厳しい決断をする瞬間の目線を上げたその目線の先に、待っていたかのようにこちらの目線をしっかり合わせてみせる。
その場、その人に全神経を集中させていると、そういう、「数コンマ先に、どんな感情を合わせたらいいのか」ということが、不思議と自然に「こういう顔をすべきだろう」とか、そういうことがわかるときがある。
相手の呼吸の感じ、声の感じ、多く見せる表情とか、今、ここで、共有している時間が、教えてくれること。
そういう身体感覚的な「共体験」を得られる瞬間っていうのは、本当に一瞬。
けれども、そこで生まれる共体験は、相手の「感情の振り幅」をそっと優しくブランコを押すように、肯定するということになるのかもしれない、と6年間この仕事をしていて感じる。そして、それはあながち間違ってもいないということにも気づきはじめている最近なのでした。