援助過程におけるクライアントの「揺れ」を定義する

公開日: 2012/10/25 MSW 思索

先日、患者さん家族の自己決定に至るプロセスの揺れに付き合い、少し疲れた1日を過ごした。

「決められない人」と相手をラベリングすることは誰でもできる。


しかし、「決められなさ」の「程度の変化」を認め、ときにその変化を言語化し相手に伝える(返していく)ことで、「プロセス」に意味を持たせ、価値化する、という恊働作業は、ソーシャルワーカーの主戦場のように思う。



「揺れ」というキーワードで、過去のブログ記事に検索をかけたら、以下の文章が残っていた(2009年:揺れに付き合う)

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患者さん家族の「揺れ」に付き合うには「余裕」が必要だと思う。 


「揺れ」は一緒に混乱することではなく、センターラインの位置がわかった上でサイドステップを繰り返すイメージ。
つまりは、立ち位置を明確にした上(言い換えればどのようなスタンス、目的をもってその人に対峙するかということ)で、同じような揺れ幅で意図的に揺れるには、揺れることのできる「余裕」が必要なのだと思う。 



患者さん家族と医療者側の事実の認識スピードは
比喩すれば「自転車と新幹線ほど違う」のだと思う。 



ラベリングすれば医療者側は楽になる。
「理解の悪い本人・家族」というラベルを張った瞬間
その人たちの「揺れ」に付き合えなくなる。


限られた時間の中で、その圧倒的なスピード感の違いの中で
対象となる人と一緒に意図的に「揺れる」ということは体力的にも精神的にもしんどいことが多い。


「揺れ」に付き合うことは「共感のポーズ」ではない。
「揺れ」に付き合うことは「揺れること自体を後押しすること」


一定のラインを越えれば「揺れ」は一つの方向性を見つけ
それに向かって人や環境は変容していく。

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上記は、援助者にとっての「揺れ」とは、クライエントに対する立ち位置(つまりは、援助者として、誰になにをどのように提供するか、というような設定をすること)を意識化してはじめて、意図的に為されるものであって、そうでないと、一緒に揺れて、迷子になるよ、ということについての気づきを記している。



基本的な「揺れ」についての定義や捉え方は、3年前とあまり変わっていないことを少し残念に思いつつも、大幅な修正を加える必要の無い言語化された実践についての言葉は、自分の屋台骨としてそれが存在している、ということを教えてくれる。



そのことに少し安心するとともに、今の自分が、上記の文脈を解き直し、再構築するとしたら、どのような定義を「揺れ」に与えてあげることができるかを、いい機会なので考えてみようと思った。







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