自分を知るということ(自己覚知)から自己活用へ
公開日: 2012/05/04 MSW 思索 自分史 勝手にブックレビュー
先日のエントリで紹介した尾崎新氏の『ケースワークの臨床技法「援助関係」と「逆転移」の活用』を読み進める中で、振り返ってみた「自分を知るということ(自己覚知)から自己活用へ」ということについて、自身の経験に引きつけ記してみようと思います。「誰かのお世話をできた」という思いはなぜ欠如しているのか
私は、誰かのお世話になったり、誰かに助けてもらったりという記憶は全然色褪せないなと時々思い出しては、誰かのためにお世話できた自分が過去にいたかな、誰かを助けたりできた自分がいたかな、と過去を手繰り寄せては、なんだか言いようもない悲しさみたいなものにおそわれることが稀にあります。別にそういった意識に対して、代替可能な免罪符としてこの仕事をしているわけでは決してないのですが…。
日々この仕事をして思うのは、自分が「誰かのお世話になった」と思った過去の記憶の中にいた人たちは決して「お世話をしてやろうっていう明確な意志」があったわけではなくて、ちょっとだけご自身たちの指先を伸ばしてくれて、その伸ばされた指先に触れた自分が「救われた」と思ったからなのだろうなと思うのです。
相手の意図に関係なく、自分に向けられた行為によって「救われた」と思った瞬間から、その対象となった行為は「自分に向けられた救済」として完結するのだろうな、と思うのです(救済という言葉は半分くらいしかしっくりこないのですが…暫定的に。)
だから、自分の中に「誰かのお世話をできた」という思いが欠如しているのも、自分が相手に向けたメッセージは、自分の意図せぬ様に、意図せぬカタチで、相手の心におちていくのだろうな、と思っているからなのかもしれません。
自分に向けられた救済は完結はしない
また、誰かから向けられた行為に伴う経験が、自分自身の中で「自分に向けられた救済」として完結するまでに時間がかかる、というようなこともあるように思います。「そのような意味付けをするに至るまでに必要な時間」
それに加え「救済として完結するために必要な他の要素の存在」
「救済として完結するために必要な他の要素の存在」については、他者、経験、経験に付する意味付けなど、でしょうか。
この2つが揃ってやっと、他者から向けられた行為が、救済として腑に落ちる、のかなと思うのです。そして「救済として完結した行為」も、様々な要因によって「語り直し」を余儀なくされると思っています。
完結→(勃発)→強制的or 必要に迫られた語り直し。
その繰り返しで、延々とアップデートし、強固なものとすることもあれば、罅割れてしまうこともあるのだろうな、と。(これは私的な経験から来る見解です
私自身、期間限定でしたが、確かに存在する「異分子を排除したがる群」に踏みにじられた時間を経てきたということ。言い換えれば「差別」という言葉から虐げられた時間があったことは、思考の深度を下げてくれたように思うのです。
「期間限定」と自分で表すメンタリティに、ものすごく嫌悪感を覚えるのも確かなのですが、きっと簡単には整理なんてできないのだと感じ、今はそれでよいのだとも思っています。
ですが、本当は「期間限定」と表すことさえも「期間限定」で許された行為なのかもしれないと思うとキリがなくなるのでやめようと思うのですが、いずれ、きっとそのことと正面から向き合わなければならない時間がくることはぼんやりとわかっていても、対抗策なんて見つかりはしないだろうから、備えようなんてないのだとも思うわけです。
『「期間限定」と表すことさえも「期間限定」で許された行為なのかもしれない』と気がついていることが、唯一の対抗策であり、心的準備なのかもしれないな、と。
今は、自分自身の言葉ではそれ以上は言葉にできないのです。
自分を知るということ(自己覚知)を肯定的な段階としての自己活用へ昇華させる
結局、自分という存在への完全なる理解なんて、自分でさえも無理なのだから、他者に求める方が間違っているのかもしれません。(正否なんてはるはずはないのですが、私個人の価値観として)他者は「自分を理解してくれる存在」ではなくて「自分という存在を理解していく過程に必要な存在」いわば、「対面」イメージではなく「並列、並走」イメージの「パートナー」くらいに思っておいた方がいいのではと思うのです。
並走なんだから離れ、逸れていいし、また戻ってきてくれたっていいんだ、と。
以上のように述べてきたことは、「思考の放棄・逃走」ではなく、思考の着地をどうするか、ということであって、どんな物事について考える上でも、自分の「思考の深度の方向」が、「放棄・逃走」ラベリングなのか、はたまた「どう着地させるか」というラベリングなのかということを考えてみるようにしています。
わたしは、「物事への意味付けを過剰に求めすぎる」という自己覚知をしています。
ですが、それは裏返せば、
『目の前にいる人が対峙しなければならない現実に対して、いつかきっとなんらかの意味付けをし、「あのときはこうだったよね」と肯定的な変化として振り返ることのできる日が、きっと、必ず訪れる、ということを信じることができる。』
ということでもあるのだと思っています。
ですから、わたしは目の前にいる人に対して、「尊敬」と「興味」を根底に関わるということを信条とし、「尊敬ベースと興味ベースを基底に置くソーシャルワーク」を採用しているのだろうなと思っています。
尾崎新氏の言う
基礎的な技術や原則を一応学習したら、援助者は各々の個性や特徴に見合ったかたちで、個々にそれを応用し、発展させる。基礎的な技術などは、援助者の個性や特徴に見合った形で工夫を与えてこそ、日常の臨床の中で生かされるものである。
という文脈に即した、私自身の「自己覚知から導かれた自己活用」なのだと考えています。
と、尾崎氏の著作に感動し過ぎてタラタラと書き連ねてしまいました(笑
「自己覚知を自己活用へ」というテーマは6年目の私にとって非常にタイムリーなテーマなのだと自己理解をしています。
この1年で私なりの「自己覚知を自己活用へ」ということについて考えていきたいと思っています。
関連エントリ:
【面接】ケースワークの臨床技法「援助関係」と「逆転移」の活用
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自己覚知論:「経験」を自身の屋台骨に昇華させるために
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